【講中史】品川四天王講

現存する板碑や奉納物、書籍などの資料から江戸の法華信仰文化を支えた講の歴史を記録する【講中史】。ここでは江戸時代からの歴史を持つ品川四天王講について記す。

資料に見える品川四天王講

品川四天王講縁起

品川四天王講縁起

 長興長榮両山三十三代日謙上人の御世、征夷大将軍十一代徳川家斉公の御世、天明八年四月十三日より六十日間、江戸浅草法養寺に於て、大本山本門寺の祖師旅立日蓮大菩薩の御像の御開帳を執行せり。右終て徳川将軍の御内意に基き、御城中に迎へて御開帳を執行することになれり。

 六月廿九日、御尊像御城へ上るに付き、江戸諸講中の送りは法養寺より見附までにて別れ、其より行列ハ御老中月番板倉左近将監殿、御出役人本多定兵衛殿の案内にて、伴僧二人、侍二人、祖師御長持二人、四天王旗四人、霊寶御長持四人、臺持、挟箱持、合羽籠持、僧俗合計廿八人にて二の丸へ上り、夫より御本丸へ進み、更に二の丸へ移り、七月廿二日まで毎日御開帳を奉行し、其乃翌廿三日閉帳退城に付、城中の行列ハ上りの時と仝人数にて、見附より江戸諸講中御迎へ申し上げ、法養寺に奉安せり。其時城中にて一同に白強飯の供養ありと云ふ。

 右御城中御開帳の送迎に四天王旗を随従せしむるにつき、寺社奉行の御尋ねあり、本門寺役者観理院より池上本門寺の祖師の御像を送迎するに、四天王旗を以て左右を擁護するハ、古例なりと御答へ申せしといふ。依りて江戸諸講中の旗は見附限りにて御別れ申せし独り品川の四天王旗のみハ城中ニ入る事となれりといふ。此の事ありてより、品川の池上取持講は品川四天王講と改称し、尓来池上御祖師江戸にて開帳の節ハ、芝の蓮臺講と共に尊像の四方に随する事となれりといふ。

 前記の由緒に依り、当品川四天王講と本門寺との関係は、一般諸講社と自ら異る事情あるにより、本門寺より特に表門此経難持坂の上に、当講社の休息所を建設することを許されたり。今現に平素一般参拝者の茶呑所とせる建物是れなり。


 右縁起ハ当講社に古記録として存せり、年月の久しき破損或ハ紛失せしに依り、今般改めて本門寺の古記録及当講社員古老の言ひ傳へを総合して是れを記する処なり。


 大正十三年三月 品川四天王講

四天王旗

(画像出典「大田区の文化財第15集郷土芸能 大田区教育委員会」より)

出典元にある通り写真は池上本門寺のお会式時に此経難持坂上すぐ左手にあった講の休憩所祭壇に飾られたものである。この四天王旗が上の縁起にある出開帳時に尊像の四方を警護したもので、その縁起を記した巻物も祭壇手前に広げられている。

文久元年岩本実相寺出開帳牛込圓福寺境内朝詣図

※部分(牛込圓福寺境内壁面の復刻図より)

これは出開帳の盛況振りを宣伝した一種の瓦版のような刷物で、参詣者で賑わう圓福寺境内の様子が描かれている。江戸諸講中の提灯、万灯といった物に交じって左端に「四天王 品川講中」と書かれた幟旗がある。図の下部に取持講中、世話人が書かれている欄があるがその中には品川の字はないので恐らくは四天王旗で警護するような役で参加したわけではなく、単純に参詣に訪れたものだと考えられる。

大正9年小湊誕生寺出開帳写真

※部分(御会式文化研究会所蔵)

大正9年7月、日蓮聖人降誕700年記念の小湊誕生寺祖師像出開帳が浅草幸龍寺(関東大震災により世田谷区北烏山に移転)を宿寺(会場)にして行われた。小湊から浅草に至る道中で撮影された一枚で、四天王旗(大増長天王)を持つ人物が見える。この出開帳について詳細は不明ながら、講中が開帳の尊像を出迎え、行列して市中を練り歩いたという江戸時代の形態は明治大正と時代が移ってもそのままの姿で残っていたことが分かる。

昭和28年身延山奥之院出開帳写真

(画像出典「身延山古寫眞帖 写真で遺す霊山の昔日 身延山久遠寺」より)

昭和28年2月11日~21日まで東京高島屋を会場に行われた身延山奥之院祖師像の出開帳。行列の出発地点である日比谷公園で撮影されたものと考えられると出典元にある。交通事情の変化により出迎えという形態は変化したが、尊像の四方を四天王旗が警護するという伝統は戦禍を乗り越えて継続している様がはっきりと分かる。

集合写真

(画像出典「セピア色の品川 明治から令和へ」より)

出典元にも詳しい解説がないため詳細不明。団参ないしお詣りを兼ねた観光旅行時の集合写真だろうか。注目すべきは品川四天王講とみえる旗の上部の紋で、日蓮宗橘(いわゆる井桁に橘)紋と稲妻紋があしらわれている。この稲妻紋は柴又帝釈天で用いられているように帝釈天ゆかりの紋章である。この講は帝釈天を信仰するいわゆる帝釈講ではないにも関わらずこの紋章を用いているというのは、目的地が帝釈天ゆかりの寺院だったのか、あるいは四天王は帝釈天に仕えているということからだろうと思われるが想像の域を出ない。

倉庫

南品川海徳寺境内に建つ。講が続いていた時代は講の倉庫として使用されていた。庇受けの金物には講の紋章があしらわれている。(上下左右に天の字、中央に王の字を配し四天王)

品川四天王講について

品川四天王講についての説明は「品川区史 資料編 別冊 第2 (品川の民俗と文化)」が分かりやすいので引用する。(ただし聞書きを収録したもので怪しい個所もあるので多少注意が必要)

 南北品川を通じて、ここに住む人逹によって結成されている題目講で、講の歴史は古く、その規模も大きい。
 この四天王講は、池上本門寺にある「旅立ちの祖師像」が出開帳を行うため、江戸市中などを巡回する際、四天王旗を捧持して四方を固めながら巡回の伴をするという任務をもっている講で、江戸八百八講といわれ、江戸市中およびその周辺に数多くあった題目講の中で、芝蓮台講・赤坂御賽銭講・青山御笠講などとともに役講の立楊にあった。江戸時代には、旅立ちの祖師に随って江戸城内ニノ丸に参入することを許されたこともあったといい伝えられている。
 この講は、現在でも品川に約二〇〇人の講員をもっていて、毎年本門寺の御会式には万灯を持って、団扇太鼓をたたきながら本門寺に参詣に行った。この講の最盛期大正時代には、四天王講の傘下に「いろは連」とか「いさみ連」などと呼ぶ万灯のグループが二十七~八連もあって、各連とも一本づつ万灯を持っていて、御会式の日には二十七~八本の万灯が各連ごとに若い衆に担がれて山(池上本門寺)に登った。四天王講としての万灯は彫り物のある立派なものであったが、山に置いておいて戦災で焼けてしまった。現在四天王講の持っている万灯は三本だけになっている。
 御会式の当日、万灯の行列は直接池上には向わず、一旦宿の貸座敷や芸者屋の並ぶ中を練り歩いてから山へ向った。
 四天王講は池上本門寺の石段(此経難持坂)を上ったすぐ左側に約二〇〇坪程の土地を借りていて、ここに接待茶屋を建てていた。この茶屋は講で経営していて御会式の当日は、次々と本門寺に集まる四天王講の各連を迎えてここで接待した。この接待茶屋にはふだんでも常使いを置いて参詣人の接待をしていたが、第二次大戦の戦火で焼失してしまった。

品川四天王講は他の古い講中と同じで、はじめは「品川」や「品川講中」と称していた。その名の通り品川(現在の品川区ではなく本来の品川宿の地域を指す)の地縁を主とした講で、かつての遊廓・花街として繁栄した町を背景にしていることもあって往時はかなりの勢力があり、最盛期とされる大正時代には多くの万灯講が傘下にあったという。その後、いわゆる赤線廃止により花街としての役目を終えた町の衰退と合わせるように講勢も傾き現在はこの講自体は存在しないが、品川に現在も多くの万灯講があるのはこの講の功績といってよく、それら品川の各万灯講のルーツなどを紐解くと多かれ少なかれこの品川四天王講に行き着く。(いわば孫や曾孫というような関係性である)